フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

もっと子供の頃の話を少し、

今思うと、とにかく嫌で扱い辛い子供だったと思う。

 

まず、死ぬほど身体が弱かった。"死ぬほど"というのは誇張ではない。実際数えきれないくらいには喘息による呼吸困難で死にかけている。幼稚園を留年しかけたくらい入院ばかりしていた。病室ではよく折り紙とおえかきをしていた記憶がある。包帯で固定された左手も使っての折り紙は骨が折れた。

小学校にはヴェポラップをお守りにして通っていた。吸入剤と一緒に。体力テストで長距離走を走ったことは無かったし、短距離でも回復までには時間が掛かった。走ると酸素が足りなくて苦しくて、気が遠くなるしグラグラする。今でもそうだ。わたしにとって死ぬ事はとても身近な事だったし、いつ死んでもおかしくなかった。中学生までは1週間喘息の薬を飲まなければ死ねた。

 

そのくせわたしは前述の母の過剰とも言える教育熱心さにより無駄に賢かった。入院中も勉強は欠かさなかった。入院を理由に学校の勉強についていけなくなるのを母は許さなかった。しかし、わたしがわたしにとって普通のペースで勉強するとむしろ学校の進度よりも速く、いざ学校に戻ってみると暇を持て余し、ノートを落書きだらけでグチャグチャにした。

わたしは宿題をやるのが苦手な子供だった。宿題の存在を覚えていられないのだ。連絡帳に書いたところで家に帰って確認もしない。それに宿題で出された勉強よりも、母が課してくる宿題の方が多かった。夏休みの友は学校で出されたものは1日で終わらせ、中学受験用の夏休みの友を別に母から渡され、2冊やった(中学受験が出来るような学校なんて地域には無いのに、だ)。担任の先生はわたしが宿題を出さずにいても怒らなかった。いや、怒れなかったのだ。わたしは宿題をやらずともそれ以上に勉強をしていた。担任など怖くも何とも無かった。

母が過剰なまでに教育熱心だったのも、理解はできる。身体の弱すぎるわたしが生きる道は勉強によるものしか無いと思っていたのだと思う。わたしは小学3年生の時には地域1番の高校に行って国立大学の薬学部に行くんだよ、と言われていた。これではもう洗脳だ。実際わたしは中学生までその洗脳が解けず、地域1番の高校に行った。

 

加えて、非常に暴力的だった。毎日誰かと喧嘩していた。体力は無いのに何故か人を殴る才能はあった。しかもそれがびっくりするくらい正当な理由だったり、自分のためだけではなく他の誰かの為に喧嘩をしていたことさえある。これでは周りは怒りようがない。

1番最初に怒りをあらわにした記憶が残っている。わたしが小学1年生の時のことだ。わたしがその学校に転校して3日目のことだった。授業中なのにみんなが話を聞かずギャアギャアうるさいのだ。話が聞こえない。わたしは母に勉強を押し付けられて嫌な思いもしているが、実際勉強が嫌いでは無かったし、勉強をするために学校に行っていた(普通の事だとわたしは思う)。なのにそれを邪魔する。隣の男の子が話しかけてくる。どうでもいい話だ。わたしは隣の男の子を殴った。後から当然先生に何で殴ったの、と聞かれる。わたしは正直に先生の授業が聞こえなかったから、と言う。そう言われては先生としては怒りようがない。わたしの主張の方が圧倒的に正しいからだ。わたしは正しさと拳両方で殴る子供だった。

 

そんなわけで、とにかく扱い辛い子供だった。今でも扱い辛い人間だが、子供時代ほどではないと思う。