フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

アートとデザインのお話

"アート"という概念と"デザイン"という概念のお話です。(とあるフォロワーの方とお話した内容をほぼそのまま書いてます、悪しからず)

 

アートといふものは、文学にしろ絵にしろ歌にしろ、結局は自己内対話の為になされるものであります。受け手が理解する為の物ではなく、あくまでも自分のために作るものがアートです。ある意味では自己完結、自己満足の世界であります。

 

対して、デザインといふものは、他者に目的や意味を正しく分かりやすく扱いやすく伝える為になされるものであります。ある意味でのコミュニケーションの一つでもありましょう。

 

この二つはよく混同されがちですが、全く異なるものであります。どうして混同されるか?それは全ての作品というものをおしなべて見た時に、完全に"アート"であるもの、完全に"デザイン"であるもの、というものは存在せず、どちらの要素も少しずつ持ち合わせているからであります。特に広く見られている物ほどそうでありましょう。

 

これはどういう事かと言いますと、"アート"を伝える為には、"デザイン"の要素も欠かすことは出来ない、といふ事であります。詳しく見ていきましょう。前述の通り、アートといふものは自己完結、自己内対話であります。しかし、それでは他人は受け入れられない。何を言ってるのか分からないし、分からせる必要すら無い。そこで"デザイン"の持つ伝える力を利用するのです。例えば作品にある解釈を設定する。それを「この作品はこれこれこういう意味です!」などと声高に発信する。すると受け手としては、どれどれふむふむなるほど、これはこういう事なのか、と分かったフリをする事が出来ましょう。そうしてやればアートは一変、デザインとなるのです。

 

僕はこのデザインといふものを好まない性分であります。デザインを提供された人間は、果たして、何を考えているのか?彼らは与えられる物を享受しているだけに過ぎないでありましょう。何も己で考える必要はない。己で考えない人間は、さて、人間と呼べるのでありましょうか?思考の停止は人間のアイデンティティの喪失であります。僕は己の自己内対話を見せることにより、相手の想像を解き放ちたい、と考えているのです。僕の作品によって新たな思想に辿り着いたり、僕の思いもよらない様な想像をして欲しいし、それを僕が知ることで、僕も新しい世界を見たいのです。そう、僕はあなた方にもアート、自己内対話をして欲しい。僕はそれを促す存在でありたいのです。例え作品を作ることをせずとも、アートは出来るのであります。

 

しかし、最近は多くの人に認められたいのであれば、やはり"デザイン"の力に頼ることが必要であると感じてもおります。人間は怠け者で自分で考える事が嫌いな人も少なくは無いでしょう。そういう人が考えるにはある程度の指針が必要であります。全くその作品のことを知らないゼロの状態から考えることはできない。それはそれで"アート"を言い訳にした作品の押し付けにしかならない可能性すらありましょう。その為にデザインを利用して自己内対話を引き出す、というのはアートをする上でも必要なことなのでは無いか?などと思い直した次第であります。

 

愛を込めて。