フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

鏡といふもの

作品というものは己を写す鏡でしかなく、醜い己が映るか、美しい己が映るか、それだけの違いである。少なくともわたしの作るものはそういう体裁を為している様に思う。

 

誰しも己の中に美しい部分と醜い部分とを持ち合わせていて、その鏡が何を写すかは鏡の中を覗くまでは分からぬものだ。

わたしの作る鏡が貴方の醜いところばかりを写すのであれば一生近づかない方が良い。その方がお互いの精神衛生上健全である。

わたしの作る鏡が貴方の美しいところばかりを写すのであれば、それはそれで気をつけた方がいい。わたしの鏡が貴方の自己顕示欲を満たすのみのものに成り果てるからだ。

つまり、作った鏡が最も適している人間といふのは、醜いところも美しいところも等しく映るようなフラットな視点をお持ちなのだ。少しの違和感と美しさとを感じるのであれば、それは鏡として適切な働きをしているものである。

 

人間といふものは誰しも矛盾している生き物なのだ。故に、正しく己が映ればそれは矛盾しているものであって何らおかしい事は無い。わたしの作品の中に矛盾を感じるのであれば、それは正しい反応である。わたしの絵はトリックアート(とっくりはと)の様なものでもあり、実際には有り得ない、しかし自分が美しいと感じるものを正直に描いているものである。それは写実主義の人々からは嫌悪されるのかもしれぬ。しかし、人間といふものはそれぞれに正しさを持っていて、実際自分の目に映るものが他の人にも同じように映るかどうかは誰にも計り知れない。お互いの正しさを押し付けあったところで何にもならない。その人にとって真実であろうがなかろうが、相手にとっては真実であるからだ。そもそも真実がどうとか偽りのものがどうとか言及する事自体非常にナンセンスなのである。貴方にとっての真実がわたしにとっての真実であるという勘違いは辞めた方が良い。それはただの水掛け論に過ぎない。わたしからしてみれば、何が写実主義だ、という感じである(しかしわたしは写実表現を好んでもいる)。

 

真実だろうが虚実だろうが、その人にとっての正しさがそこにあるなら充分なのである。それ以上何が必要だろうか?重視するべきは真実だとか虚実だとかではなくそこに確かにある事実である。そこにそれがある。それだけは事実である。それ以上の感情移入は情報として加味されるべきではない。それは各々で考えて秘めるべきものだ。そもそもそれが存在しなければ正しさも嘘も何も生まれる事はない。鏡が己を写している事だけを先ずは理解するべきである。