フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

歪な球

人間というものは多面体である。

多面体の究極系が球である(例えば何となく正20面体を想像して欲しい)。さながら人間というものは歪な球である。多面的に見て初めてその人の人となりが見えてくる。一面からしか見ないと見方に偏りが生じる。偏りが生じるという事は、正確に認識出来ないという事である。いや、実際完璧に他人を認識する事は不可能である。完璧というもの自体が最早ありえない事象だ。しかし、なるべく実際の正確な認識というものは必要な事である。そういう意味でわたしたちはなるべく事実に基づいて正確に認識をする様に努力をするべきである。

 

わたしがTwitterのアカウント分けをしない理由がこれである。ゲーム好きなわたしもオタクなわたしもカラオケ好きなわたしも芸術をやるわたしもツイ廃なわたしも、それぞれがわたしという歪な球を構成する要素の一つ一つであり、どれを欠かすことも出来ない。そのことを理解して欲しい故にアカウント分けはしていない(一応メモ用のアカウントがあるが、これはほとんど呟かず重要なことのメモ書きに運用している)。同じ人間が地続きでやっている事を理解するのにアカウントを統合して1人の人間が運用する事が必要だとわたしは考えている。それは側から見たらとても雑多に見えるかもしれないが、雑多でない人間など、実は居ないのだ。