フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

完璧という事について

わたしはしばしば、"わたしじゃダメなんだ"と思うことがあります。

しかし、よくよく考えてみると、人間誰しもがダメな部分があるわけで、別に自分だけがダメな訳ではないです。そんな事を言ったらみんなダメなんです。故にそんな事を考える必要は全く無い。人間を人間たらしめているのは、その"完璧じゃ無さ"だと思うのです。人間である限り、いや、この世に生を受けるものである限り、完璧だというのはまずあり得ないと思ってよい。

 

ところで他人に対して不満を抱く人々は、この事をさっぱり理解していないように思うのです。何か不満を指摘している貴方は、貴方自身は、それではその不満を持った人がやった事を同じレベル、もしくはそれ以上に果たして出来るのか?できる人もまあいるでしょうが、他人に不満を持つ人ほど自分では出来ない事を他人に要求しがちに思います。自分が完璧じゃ無いのに、他人に完璧さを求めるなんて変な話だ、とわたしは思います。自分にできない事を他人に求めるのは、どんな傲慢さを持ってそんな事が出来るのだろうと思うのです。単純に、完璧じゃ無い者同士、補っていけばよいだけのお話だと思うのです。そうしたらもっと世の中は良くなると思うのです。これはあくまでわたしの考えですけども。

 

まあきっとこんな事を曰うわたしも、他人に無理難題をして欲しいと思う事もありましょう。それは否定できません。わたし自身も完璧ではありませんから、そういう心持ちの時もありましょう。大変失礼しました。かしこ。

アンチの話

この話はしたくなかったんですけど、その事を知らなくて誤解を与えるのもなんか違うな、と思ったので言及します。

 

 

1番始めのきっかけは、去年のミスiDでした。わたしは、個人的に自撮りをあげるのが余り好きではありません。芸術をやるのに、作者の見た目なんて関係ないからです。しかし、ミスiDを受けるにあたり、曲がりなりにもアイドルオーディションなので顔を出してアピールすることが必要になりました。まあそこまでは別に良かったんです。

 

質問箱にいきなり、「ブスなのになんでそんな顔を晒してるのか?」みたいな内容が届きました。それまで生きてきた中で、はっきり言って、そんな風にブスと言われた事はありませんでした(単純に環境が良かっただけだと思いますが)。質問箱を荒らされました。明らかに頭の沸いた投稿しか来なくなりました。

ある日、○○と検索してみてください、という投稿が来ました。別の人からもDMでその名前を出されました。どうやら、わたしが叩かれている5chの掲示板のタイトルのようでした。どうやら、ミラクルニキ界隈の人たちの集まる掲示板でした。はっきり言って、すごく叩かれてました。わたしはそれまで5chに触れる事なく生きてきたので、その文化を受け入れられませんでした。とても不愉快でしたので(それはそう)、嫌な気持ちを周囲に撒き散らしてしまったと思います。具体的にはその事に関する感情的なツイートが増えました。

 

 

次に叩かれたのは今年のミスiD版です。今年は何が良かったのか、有り難いことに去年よりも多くの人の目に留まっていた実感があったので、恐らくそういう事になるのは想像がつきました。だからある程度覚悟はできていました。この頃には、以前使っていた質問箱というサービスを退会し、嫌な投稿は自動で省いてくれるマシュマロという匿名サービスを使っていましたが、やはりアンチ的投稿が届くようになります。マシュマロでは直接的な嫌な言葉は使えないため、彼らは遠回しな表現でわたしを責めます。マシュマロさえもアンチ用匿名質問箱と成り果ててしまったので、わたしはマシュマロも退会し、質問箱の類を置くのを辞めにしました。

その後、定期的に5chを見に行っていました。そこでついに、初めて5chで発言をしてしまいます。マシュマロが無いことにより、多くの人の意見を聞けない事が不安でした。簡単に言うと、わたしがより良くなっていくためには何をしたら良いか?と言う質問でした(腹を立てていたのでもう少し攻撃的なニュアンスを含んでいたとは思います)。しかし、結果として言葉尻しか見てもらえず揚げ足取りをされるだけで、真っ当な討論や意見はありませんでした。当然です。わたしを叩いている彼らは、わたしを彼らの見たいようにしか見てくれませんから。彼らの意見など完全に無意味で恐ろしく参考にならない事を学び、5chをそれ以来開いていません。

 

 

この事を全く知らない人からしたら、わたしはきっと他人の意見を全く聞かないヒステリー女にしか見えなかったと思います。きちんと質問箱の内容まで追って下さらないと、この事は全く伝わらなかったと思います。しかし、わたしは別に他人に自分の全ての状況を飲み込んでもらえるとも思ってないので、別に知らない人は知らなくても良い、と思ってました。ところが、最近ある出来事がありまして、わたしがただ発狂して攻撃的なツイートを繰り返し、他人の意見を全く聞かないように見えているという事を知る機会があったので、このように言及している所存です。わたしは、他人の意見を聞く気が無いのではなく、頭の悪い、他人を本質的に理解する気のない、そういう意見にまで気を遣って迎合する必要はないと考えているだけであり、そもそも他人の意見を聞く気が無いのであれば質問箱/マシュマロなんて設置しません。真っ当で冷静な討論やご意見は参考にさせて頂いておりますし、他人の意見を聞いてこそ人間は成長すると思っています。

他人をよく知らずに責められる彼らが明らかに間違っているとわたしは思います。彼らはわたしがどうやって生きてきたかなんて知る由もありませんし、伝えた所で聞かないでしょう。そもそも、他人を真っ向から責められるような立派な人間なんて、この世には居ません。それなのにそんな事をしている彼らの方が明らかに人間として劣っていると思いますし、心底軽蔑します。それが原因でわたしという人間の認識を捻じ曲げられるなんてたまったもんじゃないです。だからこうして言及する事にしました。

 

もう二度とこの話はしたくありません。

買ったばかりの向日葵が枯れてしまったから

買ったばかりの向日葵が枯れてしまったから貴方がわたしの心の中にいるのか分からなくなってしまいました。ひらぐり ひらりです。

 

会社の人に、貴方のお写真を思わず調子に乗って見せてしまいました。わたしだけの秘密だったはずなのに。みんな格好良いと言ってくれました。これは好きになっちゃうわ、とも言われました。

 

わたしは貴方の容姿だけに惹かれて貴方を好きになったのでしょうか?と、実はかなり悲しくなってしまいました。わたしは貴方の心の形が好きなつもりでした。貴方の容姿も勿論好きではありますが、それは二の次のつもりでした。しかし、貴方の心の形を微塵も知らない会社の人でさえ、これは好きになっちゃうわ、と思うくらい、貴方の容姿は魅力的です。丸でわたしも貴方の容姿だけで貴方を愛したかのように思われるのが不愉快でした。

 

貴方とわたしの間にあった文脈は、此の世の他の誰も良く知りはしません。それなのに、それなのに。彼らに貴方の心の形の素晴らしさがどれだけのものなのかなど、微塵も分かって欲しくないですし、説明する気も起きません。それはわたしだけのものにしたいのです。しかし、それすら貴方の断片でしかなく、結局わたしは貴方がわたしの心の中にいるのか、分からなくなってしまいました。それが悲しいのです。

 

会社から家に帰ったら、買ったばかりの向日葵がしんなりしており、水を替えようとしたら、首をもたげていた一輪が、ポトリ、と花を落としてしまいました。だからきっと悲しいのは、向日葵が枯れ落ちてしまったからだ、と、納得することにしました。短い命の花でした。

アートとデザインのお話

"アート"という概念と"デザイン"という概念のお話です。(とあるフォロワーの方とお話した内容をほぼそのまま書いてます、悪しからず)

 

アートといふものは、文学にしろ絵にしろ歌にしろ、結局は自己内対話の為になされるものであります。受け手が理解する為の物ではなく、あくまでも自分のために作るものがアートです。ある意味では自己完結、自己満足の世界であります。

 

対して、デザインといふものは、他者に目的や意味を正しく分かりやすく扱いやすく伝える為になされるものであります。ある意味でのコミュニケーションの一つでもありましょう。

 

この二つはよく混同されがちですが、全く異なるものであります。どうして混同されるか?それは全ての作品というものをおしなべて見た時に、完全に"アート"であるもの、完全に"デザイン"であるもの、というものは存在せず、どちらの要素も少しずつ持ち合わせているからであります。特に広く見られている物ほどそうでありましょう。

 

これはどういう事かと言いますと、"アート"を伝える為には、"デザイン"の要素も欠かすことは出来ない、といふ事であります。詳しく見ていきましょう。前述の通り、アートといふものは自己完結、自己内対話であります。しかし、それでは他人は受け入れられない。何を言ってるのか分からないし、分からせる必要すら無い。そこで"デザイン"の持つ伝える力を利用するのです。例えば作品にある解釈を設定する。それを「この作品はこれこれこういう意味です!」などと声高に発信する。すると受け手としては、どれどれふむふむなるほど、これはこういう事なのか、と分かったフリをする事が出来ましょう。そうしてやればアートは一変、デザインとなるのです。

 

僕はこのデザインといふものを好まない性分であります。デザインを提供された人間は、果たして、何を考えているのか?彼らは与えられる物を享受しているだけに過ぎないでありましょう。何も己で考える必要はない。己で考えない人間は、さて、人間と呼べるのでありましょうか?思考の停止は人間のアイデンティティの喪失であります。僕は己の自己内対話を見せることにより、相手の想像を解き放ちたい、と考えているのです。僕の作品によって新たな思想に辿り着いたり、僕の思いもよらない様な想像をして欲しいし、それを僕が知ることで、僕も新しい世界を見たいのです。そう、僕はあなた方にもアート、自己内対話をして欲しい。僕はそれを促す存在でありたいのです。例え作品を作ることをせずとも、アートは出来るのであります。

 

しかし、最近は多くの人に認められたいのであれば、やはり"デザイン"の力に頼ることが必要であると感じてもおります。人間は怠け者で自分で考える事が嫌いな人も少なくは無いでしょう。そういう人が考えるにはある程度の指針が必要であります。全くその作品のことを知らないゼロの状態から考えることはできない。それはそれで"アート"を言い訳にした作品の押し付けにしかならない可能性すらありましょう。その為にデザインを利用して自己内対話を引き出す、というのはアートをする上でも必要なことなのでは無いか?などと思い直した次第であります。

 

愛を込めて。

ミスiDでリモートカメラテストをやるべきだという話

まず最初にこの文章は、挑発的内容になる事が考えられる事を明記しておきます。それでも伝えたいことがあります。結論としては、ミスiD2021のカメラテストはリモートを実装すべきだ、という話です。

 

まず、これは一例として聞いて欲しいわたし自身の話です。わたしはぜんそく患者です。正直だいぶ症状は重めです。まず、走ることができません。体力がありません。子供の頃は発作と入退院を繰り返していました。そのせいで幼稚園を留年しかけてます。肺炎も何度もやってます。どれだけ呼吸困難で死にかけたか分かりません。少なくとも脳細胞はめちゃくちゃ死にました。中学生まではぜんそくの常備薬を1週間飲まなければ確実に死ねると言われていました。

 

現在の東京の状況の中で、そんな人間が居たらどうなるか。"死"の一文字が脳内で明滅すると思います。そう、コロナウイルスの流行です。今の東京はわたしからしてみたらはっきり言って、死に場所でしかありません。ミスiDどころじゃありません。毎年お金がなくてカメラテストを辞退する方が数名居ると聞きますが、お金の話でもない。生命の話です。そこでわたしは思うのです。余りにも不公平だ、と。

「能力や才能やヴィジュアルや、とにかく何でもいいから良いものや新しいものを持ってきて欲しい」というのがミスiDだと思うのです(解釈に齟齬があったら申し訳ない)が、それがあった所で肉体が伴っていない、ましてや東京に住んでいない、そんな理由で才能や能力やヴィジュアルを切り捨てる事になるのです。何のためのミスiDなのでしょうか?そういう、立場的に弱くても才能や能力で真っ当に評価を得られる場がミスiDなのでは無いのでしょうか?違いますか?それを今までやってきたからこそミスiDに拘り、愛する人たちが沢山いるのではないですか?それが出来ないミスiDに意味なんてあるのでしょうか?わたしは甚だ疑問です。

 

そこでリモートカメラテストの実装の提案です。去年までもバーチャルなアイドルがミスiDに出場していたことから考慮すると技術的に不可能では無いのではないでしょうか。たしかに直接容姿は見れませんが、問題はそのくらいのもので、そもそも精神性を大切にしたいような遠方の参加者や、わたしのように生命を脅かされるような参加者からしたら願ったり叶ったりでは無いでしょうか。直接の面談はいずれ必ず必要ではあるのは理解できます。しかし、今がその時だとは到底思えません。最早、直接のカメラテストだけの評価など、全時代的である、アフターコロナの世界ではありえない判断なのでは無いでしょうか。

わたしが表現をやる理由

もちろん自分がやりたいからとか思いつく事を具現化したいから、みたいな、そういう理由も正直ありますが、わたしが最近思い当たった理由の一つをここに書きます。

 

わたしは好きな人が沢山いる人間です。しかしわたし自身があまりにも人間として未熟で、伝え方が悪くて、関わり方がなってなくて、好きな人ほど嫌われてしまいがちです。本当に沢山いるんです、一方通行に愛している人が。嫌われてさようならしてしまった人が。とても悲しいです。彼らを思うとやりきれません。いつでもわたしが泣ける理由はそれです。号泣する準備はできています。

 

わたしは彼らに誇れる人間になりたいのだと思います。わたしを嫌いになってしまったけど、もう一度関係をやり直しても良い、今のわたしなら受け入れられる、そう思って貰えるような人間になりたいのです。彼らに愛されたいのです。なんて浅ましいのでしょう。きっとだからわたしは駄目なんです。きっとだから嫌われてしまったのです。今現在、わたしを愛してくださる方、沢山いるのを知っています。しかし、わたしを愛してくださる方々じゃ無いのです。わたしが愛する人の気持ちが欲しいのです。ほんの少しでも。遠くても。直接関わらなくても。彼らがわたしを認めてくれた時、わたしは初めて満足を得るのでしょう。だからわたしは広く認められたいし、その為の努力なら幾らでもします。幾らでも祈ります。幾らでも懺悔します。それだけです。わたしが浅ましいあられもない人間だという事をここに告白します。

今日見た夢のお話など

わたしはかなりストーリーの凝った夢を見る。凝りすぎてるので世界観に没頭してしまう。寝て起きてしばらくは、まるで自分がその登場人物の人生を歩んできたかのように錯覚してしまうほどだ。でもいつも起きてからは大体1時間もすると大抵忘れてわたし自身の人生に戻ってしまう。今日もそうであった。何となく宝塚っぽい世界観とディズニーっぽい世界観が混ざっててすごくゴージャスで華麗でまさしく夢の世界のラブロマンスだった、、、と思う。隠と陽のお姫様がいて、それぞれが男装の麗人の王子様と契約を交わしてたような気がする、、、(?)

 

昔はもっと見た夢を長い間覚えていられたようにも思う。夢日記を付けようと思った事もあった。が、夢日記は頭が狂いやすくなると聞いたので、とどまった。前述の通りわたしは世界観に没頭しすぎるとその人に"なって"しまうのだ。己では無くなる。例えば他の人の歌を歌う時もそうで、顔付きまで変わってくる。その時々の歌う歌で顔が変わるのだ。だからこそ演技に興味がある。もし今後機会があればやってみたいと思う。だけど演技とその人に"なって"しまうのは少し違うような気もする、、、やってみないと分からないかもしれない。

 

子供の時、わたしは非常に嘘吐きな時期があった。正確に言えば本来とは少しだけ違う自分に"なって"いたのだと思う。しかし、面倒くさくなったので辞めた。そんな所に労力を使うのは無駄だと気付いたのだ。以来、わたしは殆ど嘘を吐かなくなった。寧ろ正直すぎるくらいだ。

 

ではまた、愛を込めて。