フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

ひとりぼっち反省会

自分がダメなところはなるべく治す努力をして生きていこうと思う。

 

そも人間というのは生来持ち合わせてる物と教育によって得た物とで出来ていて、生来持ち合わせる物というのもそれは脈々と受け継がれてきた物であり、それも教育も結局自分で得た物など何もない。人間が自分自身で獲得出来る物は、唯一、努力のみである。故に人間は何かを自分自身で獲得したければ努力をしていく他に道は無い。

 

しかし、わたしは自分自身のダメな部分も良い部分も見える方の人間では無い自覚がある。なので、可能な限り周囲の人間にもご協力をお願いしたい。ただの誹謗中傷に耳を傾けて心を傷める気はさらさらないが、真っ当なご意見ご感想はいつでも受け付けております。

 

これ自体、甘えだと捉えられる可能性も否めないし、実際そういう側面もゼロではない。しかし他人の視線や物差しを多く知る機会にもなるし自分の世界や視野を広げる事になる。そして人は他人という物差しがあって初めて自分が成り立つ物なのである。沢山の人間と話せば話すほど、わたしはそれを痛感する。世の中には本当にさまざまな人間がいる。

 

某所で"あなたは周りの人間を自分を楽しませる為に存在していると考えているんだろう"というご指摘を頂いた。自分としてはそんなつもりは全く無かったので、とても驚いた。しかし、そういう風に目に映る人がいる事も事実のようである。さっき述べたような他人にご意見を賜る行動自体もそういう風に思わせる一因なのかもしれない。"もっと他人の気持ちを考えた方がいい"とも言われた。それについては弁明の必要がある。わたしという人間性がどれだけ他人の思想に想いを馳せても、それが正解だった試しが無いのだ。つまり、それはただのわたしの妄想でしか無いのである。的外れな推測というものは、妄想か希望的観測と言わざるを得ないのだ。わたしという人間性が他人の感情をどれだけ想っても、わたしは妄想に苦しめられ、または踊らされるピエロに成り果てるのみである。それは感情の無駄遣いである。故に、わたしはどのような感情を抱いたのか相手に聞くしかない。これが他人の感情を考える事の放棄だという勘違いは、どうか避けていただきたい。他人の感情を考えたからこそ今わたしはこうやってブログで文章を綴っているのである。有り難い参考になるご意見ならいくらでもわたしは反映したいと考えているし、それはわたしなりに他人を慮っているという事にはならないだろうか。

 

では、思考のまとめをしたところで、お仕事に行って参ります。