フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

自分なりの芸術論

先に断っておくが、わたしは美大や音大なども行ってないし行くような勉強をしたこともない人間だ。だからあくまでこれはわたし個人の考えであって誰かに押し付ける物でもなければ押し付けられた物でも無い。これを読む貴方はこういう考えの人間がここに存在した事を理解すればそれで良い。

 

まずもって芸術というのはある程度用法技法マナーがあるにしろ、自由な物であるし無意味な物である。というのも、芸術作品を作った当人にしか本当の意味や感情は理解し得ない物であるからだ。作ったものの過程や感情など、他人に理解できる訳が無い。ただでさえ人間同士の付き合いでも他人の思考など知る由もないのに、それが物体になっているのだから無理な話だ。他人にとって分かるのは、それがただ美しい姿形をしている事だけである。よって芸術とは基本的に無意味なのである。

 

無意味である、という状態はどういう状態か。そこにあるのは思考の自由である。意味が無い物だからこそ、その中から自由に意味を見出せるのだ。逆にそこに意味が存在している事を知っている作品があるとする。そこにはその作品の意味という名前の必然しか無い。作者がこうだと言っている以上、それ以上の意味なんて無いのだから、それをふ〜んそうかと言って考えるのを辞めてしまえる。しかしわたしはそれが嫌いなのだ。思考の停止は人間のアイデンティティの喪失である。そこでわたしは何かを作る時にある程度のストーリー性や意味合いの中にスパイスとして無意味さを加えている。それは作っている時の感情であったり、そのストーリーで見せたい色合いだったりニュアンスだったり様々ではあるが、とにかく本筋には関係ない景色を加える。そうすると、また違う広がりや含蓄が見えて来るのだ。そして、この曲の内容はこういう曲です!というのもなるべく表立って言わないようにしている。態々言うのが恥ずかしい、みたいな感情もあるが、それは受け手の想像の可能性を狭める事になるからだ。わたしは自分の作品を見たり聞いたりした人には色んな事を想像して欲しいし、考えて欲しいと思っている。芸術を通じて色んな景色が見たいし、色んな感情に寄り添っていけたら良いな、と思う。

 

わたしは評価として、よく分からない、としばしば言われる。よく分からない、の正体がこの無意味さなのではないかと思ったのだ。文脈の中に突如として現れる無意味さ。それなら一から十まで無意味な物を作ればいい、とも言われそうだが、ストーリー性がある物にも勿論良さはあるし、それを捨てる気も無い。わたしから言わせれば、よく分からないと言う君たちはとんでもない誤解をしている。分かる訳がないのだ、他人の感情など。他人の見た景色など。いつどこでどんな感情が起こりうるかなど、最早当人にさえ知る由もない。しかし当人にとってはその時はそれが全てなのである。

 

それでは、愛を込めて。