フラスコの中に漂う

何だろうと覗き込む力を

人格の連続性について

僕は連続性の非常に薄い人間です。

前回少しお話したように、僕はあっという間に気が変わるし、毎日のルーティーンなども存在しません。その時思ったままに生きています。とても贅沢な事かもしれません。とりあえず、僕が贅沢かどうかというお話はまた今度にして、今日は連続性について考えてみたいと思います。

 

まず"連続性"という言葉の定義をしたいと思います。そんな時はまずGoogle先生に聞きませう。分からないことがあったらとりあえずGoogle先生です。

 

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それと、連続性という言葉は数学用語にもあるようです。

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うむむ、なんだかよく分かりませんね。僕も数Ⅲまで履修したから分かるはずなのですが思い出せません。何となく"無限大の式はどの点と点を取っても近くにあって繋がっているからちゃんと無限大なんだよ"というような事を言っていると思います。あくまでこれは僕の解釈ですからきちんと知りたい方はあまり当てにしないでくださいね。

 

話を戻して、国語的意味での連続性の話です。類語で調べると、こんな感じです。

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まず1番はじめに"持続性"という言葉が出てきた段階で、僕が連続性の薄い人間だということが分かりますね。少なくとも短期的に見て、毎日取っ替え引っ替え絵を描くとか詞を書くとか小説を書くとか歌を歌うとかやってる人間に、連続性とかいう言葉は似合いませんね。

 

しかし、長期的にはどうですか。わたしは歌(あくまで他人に聴かせるための歌です)を歌い始めて6年になりますし、詞を書くのは実は中学生からひっそりこそこそやっていましたし、絵はもっとずっと前、幼稚園の頃からやっている事です。これでわたしは連続性が薄い、と定義できるのでしょうか。

 

 

僕はこの問題について、ある持論があります。

それは"僕の本質が求めている事は変わらない"という事です。

 

僕がしたい事は、自分にしか出来ない自己表現、という事なのですが、まず、これをクリアするには僕が僕自身である必要があります。僕が僕らしくなければ、それは果たして僕の自己表現という事が出来るでしょうか?それは取り繕った表向きの誰かの為の僕であって、本当の僕ではないはずです。しかし、それが僕自身の意思であれば、この限りはないでしょう。

 

例えば、僕が僕であって、ある日何かについて考えるとしましょう。例えば、愛するあの人の事を考えるとします。色んなことを僕は考えます。マシュマロほっぺ、マシュマロくちびる、マシュマロ耳たぶ、マシュマロふともも、マシュマロマシュマロ……………………食べたい!!!!!!!!!!!!!!!

また別のある日、僕はまた愛するあの人の事を考えます。今度はどうでしょう。あの人のダスティな匂いを嗅ぎたい。汗の匂いが好き。お洗濯する前に着ていた服を渡してほしい。くんかくんか。くんかくんか。一緒に寝たい。おやすみなさい…………………

 

僕の煩悩塗れの妄想はこの際ど〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜でも良いのですが、ここで問題です、この2つの考えの元には何がありますか?その人を愛する気持ちです。そう、そもそもの感情が変わってさえいなければ、表面的に連続性が無くても、本質的に連続性はあるだろう、という話です。

 

僕がマシュマロほっぺの事を考えていても、考えていなくても、僕が彼を愛してる事に変わりはありません。また、彼の匂いについて考えていても、考えていなくても、僕が彼を愛してる事は変わりはありませんよね。これは連続性のある事象です。途切れる事はありません。僕が僕である限り、変わりません。

 

同じく、僕が僕であって、表現をしたい、という気持ちは、たとえ手段が変わっても、やっている時が変わっても、同じです。これは連続性があると言えます。その気持ちの上で僕は僕だし、僕にしか出来ない事をやるのみです。そういう事です。

 

しかし、これはあくまで僕が僕である、という前提の上に成り立つ話です。例えば僕が僕で無くなる時があるとします。それはどんな時でしょう?少なくとも理由無く人間の本質がコロッと変わるはずはありません。あるとしても余程の事が無ければそうはならないでしょう。しかも、一瞬で革命の様に変わってしまう事ってありますか?あるのかもしれませんね。そこで僕は考えます。

例えば一瞬で革命の様に自分の前提が覆されたとしましょう。それで変わったのは、貴方の全てですか?………………きっと違うはずです。変わったのは貴方の一部、ですよね。

 

人間というのは多面的で多角的で多要素で雑多で複雑です。例えば、人間1人分で人格の要素が100あるとしましょう、そこで貴方の何かが変わったとしましょう、しかし、それは全てではない、恐らく、多くても10/100=1/10程度ではないでしょうか?それで貴方が全く別の生き物になった、と自信をもって言えるでしょうか?また、そう変化せざるを得ない、と判断をしたのは、自分自身です。この場合、自分自身、と言うのは意識的か無意識的かは無視するものとします。同じ肉体を持った同じ脳味噌を持った同じシステムを持った個体が判断する事に、大差はあるのでしょうか?大きくはないはずです。しかし、そうとも言い切れないところが人間の面白いところですね。だから人間の感情の機微を知るのって面白いです。興味深いです。それでも変わるのは一部分であって、少なくとも自分を元にした、新しい自分、という事になります。新しい自分は、以前の自分を元にして出来ているわけですから、同じとは言えないけど、違うとも言えません。これが、日々繰り返されていくわけです。しかし、1つ1つが連続した現象ですから、連続性が無い、とは言えません。例えば1ヶ月後の自分が、今の自分とまるっきり100変わっていたとしても、いきなり変わったわけじゃありません。少しずつ、1なり、2なり、10なりずつ変わっていったわけです。

 

結局何が言いたいかと言うと、人間、当然いきなり100%丸きり変わってしまうという事は無いのです。つまり、僕が僕である事は、短期的に見れば確実であるという事です。そうすると、短期的にも長期的にも、僕は本質的に連続性のある人間だという事になります。あ〜〜〜〜よかった。

 

今回は長くなりましたね。ここまでお疲れ様でした。良い夢を。